昭和四十五年六月五日 朝の御理解
御理解第三十五節 「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」
信心は日々の改まりが第一、元日の心で暮らしと。信心は日々が目出度いというような心で暮らす事を教えるという事が分かります。信心は何と教えるか、人間の幸せ、幸福というものは元日のような、いわば目出度いお互いに明けましておめでとうございますと、おめでとうございますを云いかわせるような心の状態を教える訳ですねぇ。そういう心の状態になる事の道を教えるのが信心だという事になります。果たしてお互い信心させて頂きながら少し目出度うなっていきよるでしょうか。
福岡の初代は、大変表行が出来られたお方であった。表行というのは、いうなら形の上の修行ですねぇ。断食をしたり水をかぶったりといったような・・・二代金光様が「表行にかけては、吉木栄蔵の二着に出る者はおるまい」とおっしゃった程にいうなら荒修行が出来られた方だったらしい。もともとが侍の士分の方であった。そしてたくさんの人を勿論戦いでしょうけれども、人を斬られたりしてそういうような事が非常に難儀な事が次々起こって参りますから、そういう事の罪ほろぼしといったような気持ちで信言密教ですねぇ、お大師様の信心を非常に熱心にされて日本全国の霊場を回られたという事です。福岡の教会にその時ついてまわられた杖がとってあります。ですからとにかに信言密教は非常に修行致します。そういう意味で大変修行なさった。だからそういう修行にかけては、吉木栄蔵の右に出る者はおるまいという程しの修行をなさった。ところがお道の信心は修行だけではいけん。いやむしろそういう修行はいけないと、そういう修行よりも心行をせよという風に教えられます。そういう修行より心行を第一と教えられます。その心行の中に、まぁそういうようなお方であったから学問はあまりおありにならなかったらしいですねぇ。福岡の地に布教に出られるに当たって金光様にその事をお願いになられた。福岡という所は、非常に学者の多い所。大学は幾つもあっていうなら書生の多い所と聞いておりますが、私共のような無学な者が参りまして道が開けましょうか、とお伺いになった。その時に四神様は吉木先生に教えておられる事はね、「馬鹿と阿呆で道を開け」とおっしゃっておられる。私はこの事がいわゆる今日云う、目出度い心だと思うです。ちっと人間がよいのを「あれは、少し目出度いとじゃなかろうか」と云うでしょう。だから信心とは、いわば利口になる稽古でもなければ賢くなる稽古でもない。いうなら馬鹿と阿呆になる稽古と云うてもよい訳です。けれどもね、人間のギリギリの幸福というのがそこにあるとするならです、やはりそういう道を私は選び又体得しなければならないと思う。
三十五節の一番初めに、信心は日々の改まりが第一じゃと、毎日元日の心で暮らすという事。毎日毎日、目出度いなぁといわゆる祝賀の賀とおっしゃるですねぇ。賀び。第一今日こうしてお生かしのおかげを頂いておるという事が目出度い事です。今日生きておるという事。死ぬるという事は皆さんがいとう悲しい事なんです。だから生きておるという事は、やはり有り難い上にも目出度い事なんです。だから目が覚めたら「あぁあなたも今日は生きとんなさったですね。おめでとうございます。」という気持ちがなからにゃいけん。お互いが目出度いですねぇ、とお互いの健康を祝福し合う。今日も生きておるという事を祝福し合うというような心が必要である事が分かります。それがね、信心は日々の改まりが第一じゃとおっしゃる、日々改まって参りませんとね、元日の心が生まれて来んのです。改まろうともせず只、元日の心が欲しいと云うたって駄目です。
昨日は八十八節を頂きましてねぇ。まぁ、あのような風に八十八節を頂いた事は昨日、御理解から初めて分からせて頂いたんですけれども、この八十八節はいよいよ開けた上にも開けていく事の為に、でしたですねぇ。いよいよおかげを受けたと、もう受けたらそれでやれやれと云うのじゃなくて、そのおかげにはおかげの花が咲いて又、おかげの実が実っていくというようなおかげを頂く事の為に八十八節「親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。」という事だった。ところがお互い信心させて頂いておって丁度親が鏡を持たしてもらっておるけれども、その鏡を只自分の顔をきれいにするばかり、身をきれいにするばかりしか使用してない人がどの位たくさんあるか分からない。 信心も同じ事。只おかげを受けんならんと、おかげを受けたいおかげを受けたいばかりでお参りをしてきて信心の一番大事なところの教えというか、その教えが心の上に頂けてない、行じていない、自分のものにしていっていない。それは丁度、鏡を持って行って、只顔を見る為だけの鏡にしておるようなものだという意味でした。いわゆる、いよいよおかげを受けたらそのおかげがいよいよ開けた上にも開けていく。しかもそれが限りなく無尽蔵に頂けていけれるおかげ、開けていけれる、そういう道をね、鏡を見る顔をきれいにする事にも勿論使うけれども、自分の心をきれいにしていく事に使う、と、心に辛い悲しい思いをする時に鏡を立ててみるとこういう。そういう私は生き方こそが、おかげにおかげの花が咲いていくというか、開けた上にも開けていくものだという風に頂きましたが、その開けに開けていくその内容がです、その内容が私はこの三十五節だと思います。「信心は日々の改まりが第一じゃ」とその内容はです、鏡を見るたんびに、あぁここにこういう汚れがついている。ここはこんな、にが虫かみつぶしたような顔しちゃいかん。こんな寂しい悲しい顔しちゃいかん、と思うから自分の心の建て直しを考える訳です。信心は日々の改まりが第一じゃ、毎日元日の心で暮らしとおっしゃる。毎日、元日の心で暮らさせて頂けれる為に、日々の改まりが第一であり、鏡を見る事が大事だという事になる。いよいよおかげをおかげたらしめる為に、そこにです、お互いがひとつ本気で目出度うなる稽古をしなければならんと、それを福岡の初代には「馬鹿と阿呆で道を開け」と。そのように別に学問があられた訳ではなかった。金光教の信心とは似ても似つかない、いわば信言宗の信心をして荒行だけは出来ておられたけれども、感じられる所があって金光教の信心になられて教えを受けられた。荒行の方は出来るけれども、心行の方はなかなか出来なかった方らしいけれど、そこに取り組まして下さる事を四神様は求められた訳でしょうねぇ。表行にかけては、お前の右に出る者はおるまいと。けれども表行じゃいかんのぞと。心行をせよと。その心行の焦点をです、馬鹿と阿呆になっていけと、こうおっしゃる。あの馬鹿と阿呆で現在の大きな教会が開けたんですからねぇ。いわゆる本気で馬鹿と阿呆になる事に努められた。いうなら目出度くなる事に努められた。そしたらあのようにたくさんな人が助かるようになり、あのように立派な教会が出来るおかげを受けられた。利口になれとも賢うなれともおっしゃっておられない。馬鹿と阿呆で道を開けと。そこで元日の心というのは、目出度い心だと。ですからそんなら毎日毎日、何が目出度いですかと云やそれまでですけども、段々教えを頂いて生かされて生きておる。自分で生きとるとじゃあないと。今日が神様のお恵みの中に、神様のおかげによって私共が今日あるのだと。今日あるという事がです、有り難いなぁという事になる。体も弱い、お金もない、着物もみすぼらしい、家も大した立派な家に住む事も出来ない。どこを云や有り難いのかと、云やそれまでなんだけれども、それこそ月のさし込むようなあばら家に住ませて頂いても、住む人の心、内容では、それは金殿玉露のようなお家に住むよりも、よりもっともっと有り難い尊いものという事が分かってくるという事が信心なんです。第一今日ね、目が覚めたという事は、もうこんな有り難い事はないのだと。今日こうやってお生かしのおかげを頂いておるという事は、もうこんなに有り難い事はないのだと、これは死ぬるという事を厭い悲しむ、その反対の事なのだから。今日もあなたは生きておられたですね、という気持ちなんです。だからお目出度いですねという事になる。目出度いなあ目出度いなあと口でこそおめでとうございます云わんでも、心にはです、目が覚めたら家内も、もう目を覚ましておった。お前も生きておった。あなたも生きておられた。私はこういう実感がですねぇ頂けてくるようにならなきゃならないと思います。だから目が覚めた時に夫婦がもう拝み合うていると云うか、おめでとうございますを言い合っておるような所から朝が始まる。信心生活とは、私はそれだと思う。「元日の心」元日とは四方拝とも云う。自分の周囲の全てを拝ませてもらうという事なんだ。四方拝というのは・・・。八百万の神々様がござるけんで拍手打ってグルグル回る、拝むというのではない。神様を拝むのじゃない。自分の周囲の全てを拝む心なんです。だからそれが元日。元日というのは四方拝という。ひとつだからね、いよいよおかげをおかげたらしめる。いや開けた上にもなお開けていく。おかげを頂くという事が八十八節の中から昨日頂きましたが、その内容とするものは三十五節だと、私は今日皆さんに聞いて頂いた。それにはね、私共が不思議な、私共の信心の教えの鏡というものを立てさせて頂いて、そういう事ではいけない、そういう思い方ではいけけない、そういう在り方ではいけない事が分かって日々改まるという事にね、努めさせて頂いておりますとね、誰だって必ず目出度くなれる。心が豊かに大きゅうなれるです。限りなく心が美しゅうなるです。改まっていくから。そこにはどういう私があるかというと、目出度い私があるのです。人間真実幸せになりたい、幸福になりたいというのなら、そういう私は心というか、そういう幸福の基礎というものが出来てから勉強であり技術であり、いうなら家倉財産はそれから先なのだ。そこのところが頂けずして家倉財産が出来たり、学問が出来たり、技術が出来たりするからそういう出来たものの為に不幸せにならなきゃいかん。財産作ったばっかりに不幸せになる。それは皆さんの周囲を見れば一番分かります。ですから幸せの根底、幸せの根本というものはです、そういう事だと思います。その為には八十八節のところを信心を只、拝む参るばかりせずに自分の心の上に頂けれる鏡を顔を見るだけのものにせずに、心も見て改めていく、いわゆる今日の御理解では信心は日々の改まりが第一。どこをそんなら改めたらよいかというて、なかなか自分で自分の事は分からないけれども、鏡を立てるとどこがゆがんでおる、どこが汚れておる事が分かるのだ。そこに教えがある。教えを頂くと自分の生き方が間違いないように思うておったけれども、間違うておったという事が分かる。そこを日々改まる事に、いわゆる改まりが第一じゃとおっしゃる、それは元日の心になる為にはという事なんです。私は今日、こういう風にここのところを強調して頂いた事は初めてですねぇ。元日と改まるという事がこんなに密接なものであるかという事が、今日初めて私自身、今、感じております。なる程、元日の心でという事は、そういう事なんだなと。いわゆる元日の心と云や目出度い心、その目出度い心こそがです、豊かな大きな心でなかろうかとこう思う。その目出度い心になって参りますとですね、もうみんながあの人もこの人も良い人に見えてくるのですよ。今まであの人は意地が悪いとか根性が悪いとか思いよったけれど、そげな段じゃなかった。意地が悪いやら根性が悪いのはこちらの心の方にあったのであって、みんながほんに仏様のような人にばっかり見えてくる。だからね、自分の周囲を拝まなきゃおられなくなってくる。いわゆる四方拝なんです。だから改まりもせずにですね、今日はどうでんこうでん元日の心で暮らそうと云うたってね、それは形の上に出来ても心の上から目出度い心も生まれてこないでしょうし、周囲を拝む心も勿論生まれてこないでしょう。日々の改まりが第一なのだ。そういう生き方を目指しての生活。そういう生き方が出来る事を有り難いと願うての信心。いわゆるおかげおかげと云うても違うですねぇ。そういうおかげおかげ云うちゃいけないように云われるけれども、そういう意味に於いてのおかげを願う事は、素晴らしい神様が喜んで下さる事。悲しい時の神頼みと云うが、だから金光様の御信心はね、嬉しい時の神頼みという事になりますよね。普通一般は、もう人間の知恵やら力やらでは出来なかった。おるやらおらんやら分からん神様、今まではそのように思うておったけれども、それこそ、わらをもつかむ気持ちで神様になっとんすがろうかという気持ちになるのが、今まで日本人の信心の通念であった。そこんところを教祖はですねぇ、それではない、信心とは日々の改まりが第一である。しかも日々に改まっていく事によってお互いの心の中に目出度い心が生まれてくる。元日の心で過す事が出来る。「この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と。いわゆる限りがない、受けたおかげの上にも又おかげが開けてくるという事になってくる。
最後に「元日と思うて日々に嬉しゅう暮らせば家内に不和はない」と仰せられる。本当に元日早々から夫婦喧嘩したり、親子喧嘩をしたりする者もありませんもんね。それは目出度いからなんです。又、目出度くなろうと努めておるからなんです。今年こそはと思うて頑張っておるからです。だから家内に不和がない。 今月のお互いの信心の焦点が「仲良う楽しゅう有り難う」という事でしたですよねぇ。だからいかに仲良うなろうと思うてもです、又は楽しゅうなろうと思うてもです、有り難うなろうと思うただけではいけない。私は、昨日から今日にかけての御理解等をです、本気で行じさせて頂くところから、私は自ずと仲良いものが生まれてくる。そこからは楽しいものは勿論生まれてくる。しかも根本が信心の教えを元にしての事ですから、有り難い事じゃなぁという事になってくる。今月の信心の焦点でもありますから、ひとつ今日のここの信心は、日々の改まりが第一、毎日元日の心で暮らすという、そういうおかげの頂けれる事を願いとしていくところに、日々に嬉しゅう暮らせば家内に不和はないという家庭の中にです、それこそ春のような和やかな雰囲気が生まれてくる。これにおかげの受けられんはずがない。もう願わんでも頼んでもおかげが頂けるでしょう。こういう事になってくれば・・・。
昨日、午後の奉仕をさせて頂く時でした。福岡から電話がかかってきた。最近の御信者さんです。日曜のたびに、家族中で参って参ります。必ず参って来る。その野中さんと云いますが、子供さんが怪我をしたと云う。すぐ医者に連れて行った。よろしくお願いしますという事であった。怪我というか骨がどうかなったらしい。それからすぐお取次をさせて頂いて、四時の御祈念が終わってここへ座っておりましたら、又電話がかかってきた。先程お願いしておりましたのが病院から帰って参りました。そしたらおかげを頂きましてから、病院ではどこが悪かか分からんて。どうもなっとらんと云うけれども、本人は痛い痛いとこう云う。それで病院から帰って参りましたら、ケロッとよくなっとるという訳なんです。ですから神様にどうぞお礼を申し上げて下さいと、こういうのである。私はね、本当に信心が有り難い有り難いという事はね、いわゆる昨日の御理解からいうなら、受けたおかげが又よりおかげになっていく事の為には、この辺が大変大事だと思います。もうよかよか、この次の日曜日にゃ又参るけん、その時お礼を云おうというような事じゃいけないという事です。頂いたものを有り難かったら本当に有り難いと思うだけではなくて、有り難かった事が何かにそこに表されなければならん。それが有り難いという事が仕事に表される。有り難いと思う事が対人関係の上に表されてくる。勿論いち早く神様の前にはおかげを受けてという。お願いにはあわてて出て来るけれども、お礼にあわてて出て来る氏子が少ないと仰せられる。だからその少ない方の部類に信心させて頂くようにならにゃいかん。いわゆる行き届いたという事になります。おかげをいよいよ受けていく、そのおかげがね、行き届いたおかげを受けたいと思いますねぇ。神様は行き届いた方じゃと、ちゃあんとこちらが願わんでも神様の方が先におかげを下さる。もう行き届いた。そういう行き届いたおかげを頂く為には、やはりその内容としてです、今申しますようにお礼が行き届く。甘木の初代は、信心の祈りの内容は、お礼とお詫びと願いという風に云われます。確かに信心の内容は、お礼を申し上げても申し上げても足りん程のおかげ、お詫びをしてもお詫びをしても、お詫びが尽きぬ程に自分という者が段々分かってくると、お詫びをしなければならない事が分かる。それでもなおかつ、願わなければおられんのが私達なのです。だから願いはやはり、願いお詫びお礼という事になって参りますけれども、その中のね、例えば十のものであるなら八つはお礼を云えとおっしゃっておられます。それはどういう事の為かと言うとね、頂いたおかげをおかげたらしめる為なのです。開けた上にもより開けていく事の為にお礼さえ云うときゃおかげを頂ける事が分かりますね。もう、けたたましゅう電話でお願いをしたなら又、けたたましゅうおかげを受けたらおかげを受けたとお礼の報告があってしかるべき、それが当たり前なんです。それを私共はですねぇルーズにして、もうよかよかこの次の日曜どんお参りをする時にお礼を申し上げようというような事では、信心させて頂く者の心がけとしてです、いよいよ広がった上にも広がっていくおかげを頂く事の為にも、心がけとしてもです、そういう心がけが大事だと思いますね。
今日は三十五節を、いわゆる元日の心で暮らさせて頂こうと、それにはまず、日々の改まりが第一だという事に焦点を置いて、昨日からの御理解を引用して聞いて頂きましたですね。どうぞ。